平成30年10月31日(水)に「第8回 ここ掘れ! 長野調査隊」を実施いたしました。
バス定員27名を超える応募があり、多くの方にお断りすることになってしまいました。
今回は、昨年好評だった「橋シリーズ」第2弾となります。案内人は前回同様、土木・環境しなの技術支援センター理事、長野県立歴史観客員学芸員の山浦直人さんにお願いいたしました。
予定コースは、①両郡橋、②涌池、③水篠橋、④久米路橋と河川トンネル、⑤小松原、⑦小市で、約4時間半のバス視察です。
長野駅を8時に出発し、まず向かったのは犀川線の入口に架かる橋「両郡橋」です。両郡橋の名前の由来は上水内郡小田切村と更級郡共和村を結んだことからつけられたようです。
明治初期になってかけられた橋で、幾度か建て替えられており、刎ね橋から始まり、木製トラス構造であったり、鋼製トラスを経て、現在は斜張橋になり、堂々としていながらもとても美しいフォルムを見せてくれます。
次に向かったのが「涌池」です。
1847年に発生した善光寺地震によって引き起こされた岩倉山(虚空蔵山)の大崩壊によって形成されたと言われています。一部は犀川を堰き止め、その結果諏訪湖の4倍もの水を湛えた巨大ダムができあがりました。20日間にわたり堰き止められた水は、その後決壊して大洪水となって善光寺平を襲います。それを表現した「信州地震大絵図」を山浦先生のとてもわかりやすい説明で理解することができました。
当時の松代藩が藩内の被害状況を確認するために描いたもののようですが、大変詳細に書かれており、今の地名に照らし合わせてみるととても興味深いです。
次に向かったのが「水篠橋」です。
「水篠」と書いて「みすず」と読みますが、知らなければ読めないですよね。そこで問題です。この「水篠」という名前はどこから来ているのでしょうか? 地名ではありません。答えは、歴史家の栗岩英治が信濃国の枕詞「みすずかる」から呼び名を決め、字をあてたとのことです。
山浦先生のお話によると橋の命名は簡単ではないようです。
ここで、「道の駅 信州新町」で休憩しました。道の駅には様々な特産品が並んでいて、ついつい手にとってしまいます。このような道の駅のおかげで安心してドライブできますね。
さて、後半です。次に向かったのは「久米路橋」です。
県歌「信濃の国」にも詠われているため、長野の人でその名前を知らない人はいないのではないでしょうか。久米路橋の創建は何と推古天皇の時代だそうで7世紀に遡ります。平安時代の『拾遺和歌集』にも「埋もれ木は なか蝕むといふめれば 久米路橋の橋は心してゆけ」と詠まれています。
明治前期は「刎ね橋」でしたが、現在の橋は1933年完成のコンクリートアーチ型の橋になっています。この久米路橋のすぐ近くに岩山を貫くトンネルが川の中に2つあります。何故川の中にトンネルがあるのでしょう?
答えは、浸水被害防止のためです。このあたりは川幅が狭くなっており、度々信州新町に浸水被害をもたらしていました。かといって景勝地でもある久米路峽を広げることもできず、洪水時の水の通過能力を増やすためにトンネルになったようです。ここには、「泉小太郎」伝説が伝わっていてその石像が駐車場の公園に設置されています。
興味のある方は「泉小太郎」伝説を調べてみて下さい。
ここで来た道をUターンします。次に向かったのは「小松原地震断層」です。1847年の善光寺地震によって形成された断層です。断層というと地震が心配され、家など建っていないものと想像しますが、低地は洪水など浸水の心配もあり、断層の上段は大抵見晴らしが良く家が建ち並んでいるようです。実際に小松原断層からは東側に広く開けていて、大変眺めの良い風景を楽しめます。
そして最後に向かったのは「小市の古堤防」です。
善光寺地震の犀川決壊で崩された堤防の修復は急務だったようです。1852年(嘉永5年)に松代藩の道橋奉行が作成した犀川普請に関する絵図を見ると堤防が描かれています。今でもその一部が残っていますが、削られて道路になっていたり、家が建っていたりしています。
保存すべきものであれば、早く手を加えないと風化してしまう恐れがあるのではないかと心配します。
今回の「ここ掘れ! 長野調査隊」は以上です。
写真・文 ここ掘れ! 長野調査隊 隊長 竜野泰一